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わはは牧場のご案内

おいたち

 

兵庫県養父市は但馬牛の繁殖生産地としても有名です。我が祖父はその時代、繁殖和牛の名人といわれた1人です。しかし、昭和の終わりには高齢で病気がちとなり3頭の母牛を残して自力で飼うこともできなくなり、平成と時代が変わった年に孫である私が引き継ぎました。

その頃、自分は歯科技工士として働くも残業に続く残業で体を壊し退職したところで、何か自分でできる仕事、今で言う“起業”ができないか考えていた頃でした。伝統産業でもあるこの但馬牛の生産をここで1つなくしてしまうのはもったいないと、そして、農業も立派な自営業、自分が社長でやりがいのある仕事だと思ったのです。

しかし、時はバブルの真っ只中、農業なんて誰も見向きもしなかった世間ではありましたが、逆にマスコミはこのご時世に“就農”するという珍しいやつがいる、と、さんざん取り上げられました。

某自動車メーカーの新規採用者が約5000人だったその年、新規就農者は全国でも3000人ほどだったはず。第一次産業全体ひっくるめて新しく農業を始めようと思う人が、ただの一企業の採用者より少なかった時代です。

そんな中、最初はその祖父の仕事だけを引き継いで、繁殖和牛と少ない田んぼでの米作りのみで生計を立てるつもりで、繁殖の元となる母牛も増やし、手狭になった牛舎を新築し、30頭〜50頭の大規模経営を目指してきました。

しかし…

1回目の転機は、教員をしていた父の退職時です。無農薬で米作りをしようと思ってはいたものの、牛飼いと完全無農薬栽培の米作りとの両立は難しく、半ばあきらめかけていたのですが、退職した父が「俺が米作りを、それもお前のやりたかった無農薬でやってやる」と言ってくれたのです。

父は無農薬栽培の方法として「アイガモ農法」を選びました。他にも数多くある中で、「田んぼで米と肉が育てられる」ということと、「水、太陽、土という自然の恵みの中で、それを十分に生かした自然な農法である」ということでした。

2回目の転機は結婚したころです。

アレルギー体質だった私は特に「大人になったら治る」と言われたアトピー性皮膚炎がひどかく大人になっても完治することはありませんでした。ふと、食べ物のせいではないか、と思うようになったのです。

時は高度成長期、女性の社会進出などが進み、それにあわせて食卓にも加工品が多く並びだした頃ではないでしょうか。あたりまえのようにそれらが食卓に並び、何も知らずに食べていた自分たち。これは母親を責めるつもりはありません。そういう時代だったのですから。

結婚して食事ががらりとかわり、体調の変化も見られたのです。

加工品はできるだけ避け、自然なものがテーブルに並びます。ただそれだけのことなのですが、これは容易なことではありませんでした。特に食肉の加工品は“自然なもの”というのが無いのです。

なければ作ろう。と、ベーコンを作りました。そして、どうせなら、と豚を飼い始めました。そしてもうひとつ、どうせなら、餌にもこだわろう、と。

今では、牛、豚、アイガモと、生産から食肉まで一貫生産するようになりました。米、麦など植物もすべて無農薬で栽培できるようになりました。規模拡大はやめ、現状で手の届く範囲での経営を維持していくつもりです。

 

名前の由来

 

普通ですと、名字を取って「うえがき牧場」とか「〜畜産」とかいう名前がうかびますが、それではおもしろくない。そこで、農業を始めた時に、当時御茶ノ水女子大学講師の小松光一先生にお願いして命名してもらいました。

そこで、いただいたのがこの名前。

「農業は偉大だ、なにウジウジやってるんだ!」
と、始めたばかりで前向きな姿勢が見出せなかったワタシの心をすっかりお見通しでした。

「人間が生きるためには第一次産業なんだ。いくらお金があっても、食うもんがなけりゃ生きてはいけない。一次産業はそんな人間の命を支えているんだよ」
と。小松先生。

「まあみてなさい、最後に笑うのは百姓だから…。そして、人間というもの心の底から笑うときは、“うふふ”でも“おほほ”でもない、まさしく“わはは”なんだ」

当時弱冠23歳(だったかな?)なにも知らない青年は、ああ、そうなんだ、とすなおにうなずき、ありがたくお名前を頂戴したのでした。

それから四半世紀が過ぎた今、小松先生の先見の明にはおどろくばかりです。